夏が来れば思い出す
夏が来れば思い出す。
北海道の学校は大体、7月下旬の土曜日が一学期の終業式で、その後、8月のお盆明けのちょい後くらいまでのおよそ25日間、本州と比べると短い夏休み、だった。だからある時、本州の学校の夏休みは8月一杯まで、なんてことを知って、非常に羨ましく思ったものだった。しかしその代り、冬休みも大体25日で、本州の学校と比べると長い、んでしょ? よく分からんけど。
小学生時代はそんな夏休みに入って比較的すぐ、8月に入る前に父の仕事場の同僚家族と連立って、伊達市有珠の海水浴場に隣接する民宿に泊まったものだった。その同僚家族の親戚の家族もいて、子供は子供同士でホントに疲れるくらいに遊びまくったものだった。だから、暑くて寝苦しいと思われる夜も、横になったらぐっすりだった。
そんな父の同僚家族の親戚と思われる中に、やたらと絡んでくる女の子がいた。私がメガネを掛けているから「メガネくんメガネくん」と呼びかけてくる。私はそれが嫌で「メガネくんと呼ぶな~」なんて言ってみたりもしたんだけど、彼女は相変わらず「メガネくんメガネくん」と言っては絡んでくる。で、ある瞬間にその「メガネくん」の呼びかけに「ん、なにさ?」なんて素直に答えてしまったんだな。すると彼女は指を差してけらけらと笑い、「やっとメガネくんって認めた~」なんて喜んだ。その瞬間に私自身も「しまった」と思い、頭を抱えてしゃがみこみ、「やられたー、ちくしょうめ」なんて悔しがったっけ。そんなやり取りも、まぁ楽しかったけど、彼女は父の同僚家族の内の誰の親戚の子だったんだろう? その後、彼女とは一度も会ったことがないんだよなぁ。
そんな有珠の海水浴場は、まず浜があって、ほんのちょっと歩けば岩場があって、浜から海に出た時には浮き輪に尻を突っ込んで、波に揺られてぶーらぶら、ってのが好きだったし、岩場ではそこらにいる訳の分からない貝を潰して、それを針金に括り付け、カニ釣りみたいなことを楽しんだ。私は小学1年からメガネをかけていたため、メガネなしでそんな岩場を歩くのが怖かったりもしたが、ある程度で慣れた。その後メガネを掛けたら、若干ではあるけれど、目に見える光景が以前よりもくっきりはっきり見えた、ような気がする。
翌朝早くは、父たちが漁師の船で朝ご飯の一部になる魚を取りに出掛けたりもしていたみたいだけど、昔から朝寝坊は変わらなかった。一度起こされても生返事だけを返してまた寝直した。それだもん、夏休みに子供会に所属している子供のいる家が持ち回りで「ラジオ当番」をするラジオ体操も、遅刻ギリギリまで寝ていて、ある時などはラジオ体操第二の最後の部分だけ体を動かして、それでハンコを貰ったりもしたっけ。
で、先に書いた民宿に泊まった時に、その民宿の人なのか、あるいは近所の人なのか、とにかくこれでもかと言わんばかりにヘビーローテーションで流れていた曲があった。女性の曲で、流行っていたのかなぁ? 流行っていたら、ラジオのベストテン番組でも取り上げられても良さそうなものなんだけど、ラジオでは聞いたことがなかった。歌詞の内容は、
イエスかノーか迷っているの
マルかバツかで悩んでいるの
なんて感じ。
試しに検索に掛けてみたら、歌詞が違うようで、なかなかこれというものにヒットしなかった。とりあえず、覚えているこれだけの情報を細かくして、それらを組み合わせて検索してみたら、やっとヒットした。そのキーワードは「イエスかノーか」「悩んでいるの」「歌詞」だ。で、それで導き出されたのが、伊藤さやかの「天使と悪魔」なんだけど・・・、なんなんだ、「ナンパされたい編」と「カンニング編」って?
試しに YouTube でも検索してみたら、ほう、両方ともヒットした。最初は「カンニング編」。
次に「ナンパされたい編」だけど・・・、海水浴場の隣接する民宿で嫌なくらいにヘビーローテーションされているのを聞いたのはどっちだっけ?
アイドル歌謡っぽい「カンニング編」と、若干テクノ歌謡っぽいフレーバーも感じられる「ナンパされたい編」だけど、伊藤さやかの Wikipedia のページを見てみれば、時系列的には「ナンパされたい編」なんだよなぁ。ただ、好みとしては「カンニング編」だったり。
それにしても・・・、昭和57(1982)年5月の伊藤さやかのデビュー曲をレコードプレーヤーで飽きるまでリピートしていたのか、カセットテープに延々と同じ曲を録音し続けたのはか分からないけど、さらに、なんで売り出されたばかりで売れていない曲を、海水浴場がある田舎でヘビーローテーションされていたんだろう? 曲名とアーティスト名は判明したけど、そのヘビーローテーションの理由が分からないんだよなぁ。
夏が来れば思い出す。
小学生時代はまだファミコンが出る前だった。色々なメーカーが色々なテレビゲームを出していた群雄割拠の時代ではあったけど、ファミコンなそんな既存勢力をほとんど一掃してしまったよなぁ。でも、ファミコンが出る前の小学生は、近所の空き地や、鉄道の街だったから、機関区のグラウンドや保線区のグラウンドで野球をするのが一般的だった。野球と言っても、9人のチームが2つできるほどの頭数もまず揃うことはなかったから、ピッチャーとキャッチャーとバッターがいれば、その他のメンツは適当にそこらへんに散らばって守備に着いたもんだった。そして、そのバッターが打ち、アウトにならないように1塁に走ったら、その1塁上には「透明ランナー」という架空の走者を置き、また違う人がバッターに回る、なんて具合だった。だから、敵味方関係なしの野球ごっこ、ってのが正しいのかもしれない。でも、天気が良ければ毎日のようにそんなことをしていたっけ。
野球じゃなかったら自転車で山に行ってのクワガタ取り、なんてことにも熱中したなぁ。
この木には居そうだ、なんて思ったら、その気に数発キック、横に払うような感じではなく、足の裏で木の幹を踏みつけるような感じでその木にショックを与えるんだ。すると、居れば「ぼたぼたぼたっ」とクワガタが降ってくる。虫かごなどの用意が無かったら、野球帽の前頭部に落ちてきたクワガタを押し込み、そのクワガタが潰れないようにそっと野球帽を被り直したものだった。
また、山によっては取れるクワガタも違っていて、私たちの間では小さいノコギリクワガタを「キョウソウ」、一般的なサイズのノコギリクワガタはそのまま、甲殻の上に突起があって、色も茶色がかっているミヤマクワガタを「ゲンジ」なんて呼んでいた。で、そのゲンジがよく獲れる山がゲンジ山、なんて言っていたっけ。
今でも取れるのかなぁ? 機関区、保線区の敷地も宅地になって、新たな町名になっているのがちょっと悲しかったりもするんだよなぁ。
夏が来れば思い出す。
そんな小学生時代を過ごした後、そのまま持ち上がりで中学生になれば、暗黙の了解的な雰囲気で部活に所属することが求められた。小学生時代に血尿を出し、それからしばらくは運動禁止というドクターストップがかかっていて、それが解けた後に楽そうだからと卓球を選んだんだけど、まぁ、その延長上で卓球部に入った。が、1年生は基本的には玉拾いしかさせてもらえなかった。それでも、同級生とどれだけ素早く落ちて転がった玉を回収できるか、なんてことで競ったりして、それもまた楽しかったんだよなぁ。ラケットを振っている先輩の足元の玉を拾おうとして、その先輩のスイングでラケットが頭に当たる、なんてこともあったな。
ただ、夏場の卓球部ってのはホントに辛い。暑いからと窓なりドアなりを開けて風を通そうとしたら、その風でピンポン玉の軌道が不規則に揺れてしまうんだ。それじゃだめだと開口部を閉め切ると、暑くてたまらんのだ。そして、その時代はまだ、運動中には水分を摂ってはいけない、なんて教えや、熱中症対策みたいなものは全くなされていなかった。その代りといってはアレだけど、タオルを水で濡らして首に巻く、なんてこともやったけど、気持ちがイイのは最初だけ。後はただ気持ち悪い濡れタオルが首に巻きついていて、逆にイライラしたり。
そんな濡れタオルで、おふざけであまり態度がよろしくない先輩に、部長が「そ~れ、濡れタオルリンチだ」なんて言って襲い掛かったりもしていたなぁ。
夏が来れば思い出す。
住んでいたのが国鉄(現JR)アパートの4階だったので、夜に窓を開けておいたら、涼しい風が家の中を通り過ぎて行って寝心地はすこぶる良かった。そして、とりあえずは高層階なので、あまり蚊などの虫に刺される、なんてこともなかった。ただ、予防的な意味で蚊取りマットなんかをセットしていたけど、ふとした瞬間にその匂いを感じると、ああ、夏なんだなぁ、なんて思う。
夏が来れば思い出す。
田舎なので夜は静か。窓を開けていたら、どこからともなく虫の声が聞こえてくる。そんな環境で、もっと音楽を知りたいと思っていた私は必然的にFM放送をヘッドホンで聞くようになり、興味アリと思った番組はそれを録音するというエアチェック小僧だった。当時はNHK-FMとFM北海道しかなくて、おまけに札幌から直線距離で50キロ離れていて、建物が鉄筋コンクリート造りだと、良好にFM放送を受信できる場所は必然的に窓のそば、ということになる。
私の中学進学祝い的な意味もあったりするんだろうか? 父の夏のボーナスで比較的でっかいラジカセを買ってもらって、それで夜な夜なFM放送を聞いていた。当時は夏休み企画みたいな感じで、日本のロックの歴史、みたいな番組をNHKが月曜から金曜の夜にやっていて、それとFM雑誌をくまなく読むことで、耳年増となってしまった。その時にもっと経済的に余裕があったり、合理的な考えを持っていたりしたら、多分、そのシリーズを全て録音していたな。
当時はクラスの音楽好きの中でフュージョンではスクエアとカシオペアのどっちが好きか、なんて派閥があったりしたんだけど、私はYMOにこだわっていた。昭和58(1983)年に「散開」して間もなかったので、「ボクはテクノ」というだけで異端児扱いもされた(苦笑)。大体昭和60(1985)年9月1日日曜日の午後10時からFM北海道で放送された「マツダ ザ・ミュージック」なる番組では、「テクノは何処へ」と題して、パーソナリティの難波弘之さんが「何を今さら、何ておっしゃらずに、今晩はコンピューターとシンセサイザーを駆使して作られた数々のテクノポップの名作を聞きながら、現在のミュージックシーンにおいてテクノポップがどんな役割を果たしたのかを振り返りながら探っていこうと思います」なんて話していたしなー。
ちなみに流れたのが
BGMとして、Yellow Magic Orchestra の「Computer Game ”Theme From The Circus”」~「Tong Poo」
Kraftwerk 「The Model」
Yellow Magic Orchestra 「Rydeen」
Logic System 「Metamorphism」
M 「Pop Muzik」
ヒカシュー「20世紀の終わりに」
Blondie 「Heart of Glass」
Plastics 「Top Secret Man」
Aretha Franklin 「Freeway Of Love」
Dead or Alive 「You Spin Me 'Round」
難波弘之さんによるそれぞれの曲に対するコメントは、順序通りで「え~、改めて聞いて見ますとやっぱり退屈ですね なんつって(笑)」。
曲前に「現在のロンドンを中心としたヨーロッパ産のデジタルミュージックを創っているアーティスト、プロデューサー、NYのヒップホップシーンの中心人物が、みんなYMOを聴いて影響を受けているという事なんですね」で曲後には「最初、ベンチャーズかと思った」。
「YMOを中心とした日本のテクノシーンに忘れてはならない存在、いわゆる新しい職業、シンセサイザーのマニピュレーターやシーケンサーを打ったり、自動演奏をセッティングをする仕事、これが新しく生まれた訳なんですけど、それの元祖ともいうべき人が松武秀樹選手な訳なんですけれども、それでは松武秀樹選手の Logic System で曲は『Metamorphism』」。
「Mは今聞いても古びてはいないですね。テクノっていうよりポップスとして普遍性があるような気がしますね」。
「ヒカシューはやっぱり特異な存在。寄席のボーイズ物の伝統みたいなもの、よくよく思い浮かべるとヒカシューのコスチュームもそういうっぽい感じがしたんで、ひょっとしたらそれのパロディの意味があるのかも」。
「ブロンディはオルガンを使っていてロックの色を色濃く残している」。
「プラスティックスに至りましてはね、なんと申しましょうか、凄かったでありますね(笑)」。
「アレサはさすがに大御所という感じ。ソウルミュージックが基本になって、そこにテクノを取り入れている感じがしますね。ちゃんと ドンスカタカトン というソウルミュージックでお馴染の太鼓のフィルもちゃんと活きている」。
「デッド・オア・アライブはデジタル処理されたサウンドの中にパンク、ニューウェーブの力強さが残っているような感じでしたね」。
「まぁ結局、テクノポップという短い間のムーブメントは70年代と80年代を繋ぐパイプだったような気がします」なんて感じで〆だったんだけど、なんで聞き返しているんだろ>ヲレ。
でも、クラフトワークもスネークマンも、戸川純も Phew も最初に聞いたのはFMだった。
クラフトワークは難波さんも言っていたように、退屈で苦痛だった。だけど、それまでに聴いた音楽とは違うタイミングで音が鳴ったり、あるいはその単調っぽい繰り返しがいつしか快感に変わっていったのは、何故なんだろう。
YMOに関しては特に私が言うべきものは何もない。ただ、YMOやクラフトワークの曲の一部がサンプリングされて、別の曲に生まれ変わっているという事実をも鑑みれば、彼らがいかに凄い存在であったのかが分かろうというもの。
松武秀樹さんの音を聞いたのもこの番組が初めてだった。メタモルフィズムでは、ホーンみたいな音が目立っていて、このトランペットソロはカッコイイなぁ、なんて思ったんだけど、実はそれもすべてシンセで合成された音なんだよね。
Mじゃない別のアーティストが、テレビのCMでカバーしていたように記憶しているんだけど、本家のM、実はロビン・スコットのユニットの曲は、なかなかな佳曲揃いで聞いていて飽きなかったなぁ。
ヒカシューは、なんかシンセサイザーを使ってはいるものの、なんか怖いフォークロアソングのような気がして、テクノ御三家の中では一番とっつきやすかったのも事実。
ブロンディは確か以前に、トヨタのアクアのCMで曲が使われていたような。で、ラップにも挑戦したものの、しょぼかった、なんて感じを受けるなぁ。
プラスティックスは、テクノ=テクニックが無いを具現化したようなグループだからなぁ。アルバムを初めて聴いて、「こんなことしちゃってイイの?」なんて思った記憶がある。
アレサ・フランクリンとデッド・オア・アライブは1985年当時のヒット曲じゃなかったっけ。
でもこれらが、小学生時代から中学生自体の夏休みの過ごし方だった。
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