私にしてみれば・・・
大変有名で数多のヒット曲の歌詞を手掛けたなかにし礼さんが亡くなられた。
おそらく、ネット上に流れたであろう最初のニュースがこれだった、と思う。
作詞家&直木賞作家、なかにし礼さん死去 82歳「北酒場」「石狩挽歌」昭和の歌謡界支えた巨星
「北酒場」「石狩挽歌」など数多くのヒット曲を手掛けた日本歌謡界を代表する作詞家で直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい、本名中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが23日、東京都内の病院で死去した。82歳。死因は明らかにされていないが、1カ月ほど前に持病の心疾患で入院していた。10月に作曲家の筒美京平さん(享年80)が他界したことに続く、衝撃的な悲報。日本の音楽界はまた一人、大きな星を失った。
数々のヒット曲を作詞した昭和を代表するヒットメーカーで、映画やオペラの製作でも活躍。時の政権を厳しく批判する辛口のテレビコメンテーターとしても、お茶の間に愛された人だった。
関係者によると、1カ月ほど前に持病の心臓病が悪化。都内の病院に入院していた。
波瀾(はらん)万丈のなかにしさんの人生で、この10年は病気との闘い。2012年に食道がんを克服し、3年後に再発するも、それも克服。心臓病は92年からの持病で、16年に除細動器とペースメーカーを埋め込み、劇的に改善していただけに周囲のショックは大きい。
68年の黛ジュン「天使の誘惑」、70年菅原洋一「今日でお別れ」、82年細川たかし「北酒場」で日本レコード大賞を3度受賞。00年には「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞。翌年、満州からの引き揚げ体験を描いた「赤い月」は100万部近いベストセラーとなり、戯曲を含めた旺盛な執筆活動とマルチな活躍からスーパー作詞家と呼ばれた。
大学時代にシャンソンの訳詞を手掛けたのを機に作詞を始め、63年に当時の大スター、石原裕次郎さんから声を掛けられたのが歌謡界に進むきっかけとなった。
65年に発表した菅原洋一「知りたくないの」が最初のヒット。その後、ザ・ピーナッツ、ザ・タイガースらスター歌手の曲をはじめ、昭和の歌謡曲全盛時代を支えた。
手掛けた作品は4000曲。それまで流行歌も軍歌も「七五調」が主流だった中、「自分は絶対に七五調は使わない」というのが作詞の鉄則。「破調のリズムで日本人の心を動かしたい」という思いは、旧満州で祖国に捨てられた戦争体験が根底にあった。
執筆活動のもう一つの原点が幼少期からの赤貧体験。破滅的な兄への複雑な思いと原体験を歌にしたのが、75年の北原ミレイ「石狩挽歌」(作曲浜圭介)。
♪ごめがなくから にしんがくると あかいつっぽのやんしゅがさわぐ――。
兄が大金をつぎ込み失敗したニシン漁の情景を描き、その重い世界観は歌謡曲ファンを圧倒。そんな兄との葛藤を描いたのが最初の直木賞候補作「兄弟」だった。
あらゆる作品に通ずるのが「反戦」への思い。何度も死線をさまよいながらも、とどまらない創作意欲について、4年前のスポニチ本紙のインタビューでも「戦争体験をしっかり残したいんだ」と熱く語っていた。
◆なかにし 礼(なかにし・れい、本名中西禮三=なかにし・れいぞう)1938年(昭13)9月2日生まれ、旧満州(現中国東北部)出身。91年に映画「動天」の製作を指揮。93年には神奈川・鎌倉芸術館の開館記念作としてオペラ「静と義経」を制作した。同作は昨年、26年の時を経て再演された。また、01年から14年間、テレビ朝日「ワイド!スクランブル」のコメンテーターを務め、お茶の間にもよく知られた存在だった。
記事の通り、歌謡曲の世界ではヒットメーカーだったなかにし礼さん。歌謡曲界では少しばかり時間が経ち過ぎの感もあるが、2007年8月に亡くなられた阿久悠さん、2020年10月、つまりは今年の10月に亡くなられた筒美京平さんに続く、大きな損失になった。筒美京平さんは作曲家だけど。
タモリ倶楽部の企画、確か「クイズ 名曲殺し」で、Gilbert O'Sullivan の Alone Again - Naturally をとんでもないタイトルと歌詞に作り替え、それがテレビの電波に乗っちゃったものだからさぁ大変。タイトルが「また一人」で、作詞が「なかにし礼」さんという事だったのだが、見事に原曲の世界観が破壊されていたのだ。
それが余りに酷かった。酷過ぎた。
とにかく、最初は原曲を持ってこよう。
続いて 「また一人」。これを歌っているのが九重佑三子さん。
驚いた事に、2018年1月末にライブで歌っている動画も発見した。
一応「アローンアゲイン」と字幕が出たが、違うだろ(苦笑)。
名曲なので、色々な人にカバーされている。美しい旋律なのでちょっと物悲しい内容なのか、と思ったら、とんでもない。両親が亡くなって自暴自棄になり、教会の塔に登り、身を投げようとした、少しばかりマザコンの気質も感じられる男の心情を歌った歌なのだ。原曲の雰囲気を壊さないように意訳したものも存在する。それは山上路夫さんのものだ。
山上路夫さんのリンク先に飛んでいったら分かるけど、誰もが知っている(?)あんな曲やこんな曲がわんさとある。いや、本当にほぼ全ての日本人の耳に入っているのではないだろうか。すげー。
山上路夫さんは、原曲の雰囲気を極力壊さないようにと考えての意訳で、大変苦労したと思う。その日本語の「アローン・アゲイン」は日本人でもそこそこな方達が歌っている。私が知っている限りでは、金井克子さん、草刈正雄さん、麻丘めぐみ(!)さん等。
この曲は1972年に世に出た。麻丘めぐみさんの生まれは1955年。本家が1972年発表だとすると、単純に計算しても17歳よ。それをライブで歌っている。
英語歌詞を守って歌っているのは、布施明さん、来生たかおさん。私が知っているのはこれ位。他にも歌っている人がいるかもしれない。そして今、日本語歌詞で歌っているアローン・アゲインを YouTube で見付ける事ができるのは、草刈正雄さんだけかな?
ちなみに25年ほど前には「直訳ロック」ってのが流行った。その先駆けが「王様」と名乗る人物で、最初に Deep Purple の歌詞を日本語に訳して歌い、それを「深紫伝説」として売り出した。最初は自費出版のような物じゃなかったかな? 英語耳を持っていない日本人には、洋楽ロックはさぞかしカッコいいことを歌っているんだろう、と信じて疑わなかった。しかし、Smoke on The Water は愚痴の歌だった。
同様に、直訳っぽく歌っている動画もあった。
テレビ CM で、聴いた感じがきれいだからと歌詞の意味を考えないで使っていた企業もあったな。
英語でさえこうなら、さらに異国の言葉の曲はどんなことを歌っているんだろう?
テープで逆再生したら全く別の意味になる曲もある、と聞いた事もあるが、はてさて。
それにしても、私にしてみれば、なかにし礼さんは「また一人」の人で「私としたことが」の人としか思えなくなってしまっていた。
あ、もう一つ。「兄貴、死んでくれ」 の人でもあった。
リンク先に飛んだら、やはり、ほとんどの日本人(?)の耳に入っている曲も多い気がするが、これは昭和生まれの感想なのかもしれない。平成元年生まれだと・・・、31歳? 平成生まれは、どんな曲を聴いて育ったんだろう。
なかにし礼さん、とても失礼なことを並べ立ててしまい、申し訳ありませんでした。
ゆっくりと、安らかにお眠りください。先に逝った歌謡曲界の大物と、今の日本の音楽事情を笑いながら愚痴ってくれていたらいいね。
昭和の名曲は今聴いても耳に残る。今現在の曲は、もう何が何やら。
これは加齢によって、新しいものに対して飛び付けなくなったから? そういうところで加齢を感じるのも寂しいものではあるな・・・。
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